
アルタナミッションを、ぶるぶるさんでプレイして、久しぶりに頭からクリアまで通して体験した訳ですが。
こうしてみると、アルタナミッションという物語のメインテーマは、「選ばれなかった者たち」なのかなぁと思います。
★★★
FF11をプレイする冒険者は、非常に特別な存在であって、基本的に常に「選ばれる」存在です。
ミッション戦闘でつまずこうが、選択肢で常に「いいえ」を選び続けようが、自分の心が折れて全てを放棄しない限り、ヴァナ・ディールはいつまでも冒険者を待ってくれます。
そういう存在に対して、歴代ミッションと歴代ヒロインたちは、色々な立ち位置で挑戦し交錯してくるのですが、その中でもアルタナミッションは独特です。「選ばれる存在」である冒険者に対して、「あなたが本当は選ばれる存在でなかったとしたらどうする?」という問いを突きつけてくるからです。
プロマシアミッションにおいても、冒険者は「実は人間五種族というのはアルタナの涙から産まれた存在ではなく、むしろ忌み神であるプロマシアが分かれて産まれたのだ」という事実を突きつけられます。
これは、本来ヴァナ・ディールに産まれて育ち、その価値観を浴びて現在存在しているはずの「キャラクター」にとっては、ものすごくショックな出来事のはずです。現代日本で暮らす人間に例えるなら、「成人して普通に生活してたら、ある日突然親から『あなたは本当は私の子供じゃなくて、あなたが日頃から嫌ってる○○さんが産んだんだけど私が引き取ったのよ』とカミングアウトされる」みたいな体験。
ですが、まあ、プレイヤーはヴァナ・ディールが大好きでも生まれ育っている訳ではさすがにないし、そもそもプロマシアをまともに知るのもこのミッションからなので、そこまで衝撃を受ける訳ではありません。なので、カーバンクルに「キミならきっと真実を受け止められるはず!」とか励まされても、「何の話だっけ?」となったりします(笑)。
ここで空振ったショックを体験してもらうという意図が、まさかあった訳ではないのでしょうが(笑)、アルタナミッションはもっとシビアに、「PC陣営に実は正当性がありません」というやり方で追いつめてきます。
全ミッションの中でも、アルタナミッション佳境の追いつめられ感はすごくて、初めてプレイした時は「これ一体どうするんだ」という気分になったのをよく覚えてます。
★★★
しかし、どこまでいっても、冒険者は本質的に「選ばれる存在」です。その悩みは、あなたが選ばれなかった存在だったらどうする?という思考実験に留まる一方で、本当の意味で選ばれなかった存在が、この物語には現れます。
レディ・リリスというアンチヒロインは、アルタナに選ばれなかったこどもです。彼女はその運命に反逆して、オーディンという本当の意味で人を闇に陥れる神を選び、世界そのものを支配しようとします。自らが選ばれなかったことに対する取り返しをつけるには、世界全てでなければ釣り合わないとでも言うように。
彼女がこうなってしまうのは、単に闇の王の暴虐への対抗というものを越えた、もっと大きな病理が感じられます。
「私の方がもっと優れているはずだ」と繰り返し何かに問い続けるレディ・リリスは、自己肯定感の欠如を他者との比較で補おうとする、現代日本のわれわれが抱える「生きづらさ」をそのまま描写しているかのようで、そういう点でもめちゃくちゃに胸が痛くなります。
レディ・リリスが「救われる」ためには、結局彼女が自分自身を壊してしまうまでに突き進むしかなく、そこまでいってやっと、リリゼットという「選ばれた側の半身」の慈愛が届きます。
しかも、リリスを救うためには、リリゼットがある意味で犠牲にならなければならない。一人の人間を救うためには、一人の人間が必要になるのだとでも言うように。
そこまでいかないで、彼女が救われる道はなかったのか。あったとしたらどこで彼女はその道を見失ったのか。なかったとしたら一体どうすればいいのか。
アルタナミッションは、リリゼットとレディ・リリスの葛藤そのものを描くのがメインテーマなので、「ではそもそも葛藤の上位にある問題をどうすれば解決できるのか」は(恐らく敢えて)描いていません。
もしかしたら、レディ・リリスへのアンサーは、イロハの登場を待たなければならないのかも知れない。
イロハもまた、過去に干渉し過去を変えようとする存在です。一方で彼女のたどる道も、行く末も、最後の結末も、レディ・リリスとは全く異なるものとなります。
もちろんそれは、イロハが「あらかじめ選ばれた存在」であったという見方もあるのですが、彼女の運命にはまた別の痛ましさがある。
まるで、自己実現というのはアルタナの加護があっても安楽に達成できるものではないよ、と静かに告げられているかのようです。
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